選択の自由
2020/12/07
じゅごん出版書籍 一覧
いや〜、新規事業に参入することにし脳内アドレナリン出まくりで朝4amには目が覚めてしまう、じゅごんですw
さて、この『じゅごんの頭の中』というカテゴリ。 なんのために書いているのかと言いますと・・・
『我々はなんのために生まれてきたのか?』の記事でも書いていますが、我々はある日突然、自分の意思とは無関係に死にます。
でも、『ある日』とは遠い未来の話でもなく、病気や交通事故など、予告なく突然訪れます。 わしは今のところ、太く長く、100才オーバーまで生きる気満々ですが、飛行機事故などで来月突然死ぬことだってあるわけです。
わしには太郎、次郎、二人の子供がいます。 まだ小学生ですが、今後大人の階段を登る過程で、様々な問題や苦悩と対峙することでしょう。
その前にわしが他界した時用に、その瞬間に相談にのれない代わりに、わしが今まで生きてきた中で、感じたこと、考えたことなどを少しでも子供たちに残しておきたい、と、ある日思い立ち、ブログの片隅に書き留めておくことにしたんです。
まぁ、遺言みたいなものですねw
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例えば、いきなり後ろから体当たりされたとしますね。
どんっ!
普通の人「えっ、なに!?」
短気な人「いて! なにすんじゃわれぇ〜!」
そして・・・
どんがらがっしゃ〜ん・・・
あなたがさっきまで立っていたところに、車が突っ込んでいきました。
そう、体当たりした人は、車に気づいてあなたを助けてくれたんですね。
いきなり体当たりされて、戸惑ったり、怒ったりしたわけですが、車から助けてくれたと分かったら、感謝の気持ちになると思います。
『体当たり』という同じ事象が起こっているのに、『車がぶつかる!』という情報を得たら、怒りから感謝へと、気持ちが180度変わったんですね。
ビクター・フランクルというユダヤ人の心理学者がいました。
彼はナチス強制収容所に両親・兄弟・妻などと収容され、ほとんどの一族路頭は拷問、毒ガス室、病死するといった壮絶な環境にいました。
しかし、その壮絶な環境の中で彼は一つの大きな発見をしたのです。
彼自身が『人間の最後の大いなる自由』と呼ぶものを。
それは『選択の自由』。
例えば、拷問を受けたり、死んだ親戚のお墓を作らされたり、といった厳しい外部要因は自分ではコントロールできない。
しかし、それらに対して、自分がどう反応するか、という選択の自由は残っているということを。
例えば友人と話をしていて、口げんかになることがあると思います。
ちょっとイラッとすることを言われ、そのまま感情的に言い返してしまう。
でも、この『ちょっとイラッとすること』ってなんでしょうか?
往々にして、人は痛い本質を突かれると抵抗したくなります。
感情的に反論するのではなく、そこで立ち止まって、なぜ自分は今、カッとしたのだろう?と自分の心に問いかける。
あなたの友人であれば、意味もなく怒らせることは言わないはずです。
そこには何か理由があるはず。
ただ感情的に反論を繰り返す人生と、痛いことを言われたときに立ち止まって、その真意を考える人生。
同じ人の人生ですが、5年後、10年後、全くといっていいくらい別の人生になりそうだと思いませんか?
前述の口げんかなども、友人が良かれ、と思って伝えている内容を批判と取り、反射的に反論しているわけです。
そして批判されることを嫌うことによって、最終的に『当事者を回避する』ようになります。
例えば、旅行に行こう、となったとき、
○ちゃん「私はどこでもいいよぉ〜♪」
わし「じゃ、○○はどうかな?」
○ちゃん「そこは××だからちょっとぉ・・・」
わし「じゃ、△△は? 海が綺麗らしいよ♪」
○ちゃん「そっちは××らしいから、どうかなぁ・・・」
わし「じゃ、どこがいいかな?」
○ちゃん「どこでもいいよぉ〜♪」
どこでもいいと言っておきながら、否定の連続。
ほとんどコントの世界ですw
まぁ○ちゃんって、嫁ちゃんですがw
でも、こういう人、凄く多いです。
否定はともかく、自分から提案することをしません。
そういう方が一番忘れていること。
それは、当事者を回避するようになると、結果的に自分の人生ではなく、他人の人生を歩むようになる、ということ。
もちろん、自分から主体的に動くときには責任も伴います。
でも、だからこそ価値があり、厳しいながらも美しい人生になると思うのです。
人生一度きり。
来世は、フンコロガシだったり、バオバブの木になってるかもしれませんw
お互い、悔いのない人生を歩みましょう♪
それでは、みなさん良いお年を♪